宮崎市のシンボルと言えばワシントニアパームそして平和の塔と言っても過言ではない(私見ですが)と思います。
今回は幼少期からずっと見てきた「平和の塔」をご紹介いたします。
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– 県立平和台公園 –
宮崎市の高台に位置する平和台公園。春は桜の名所、秋は紅葉のスポットとして地元住民の憩いの場所です。
平和の塔は世界各地から集められた石を土台にして、高さ37mの巨塔で展望台からは宮崎の市街地が眺められます。
園内には、はにわ園があり森の中に400体もの埴輪のレプリカが佇んでいます。またアスレチック遊具や草スキー場も整備されていて、充分にのんびりとピクニックが出来る環境です。幼稚園、小学校の遠足に利用できる施設です。
– 平和の塔(八紘之基柱、八紘一宇の塔) –
「紀元2600年記念事業」として宮崎県奉祝会が中心となり、「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)の建設と周辺広場の造成が実地されました。作業員は延べ66,500人、総工費(当時)67万円をかけて1940年(昭和15年)に完成。1942年(昭和17年)には大日本帝国逓信省(現日本郵便)が4銭普通切手として国威発揚のデザインとして富士山とともに描かれました。
設計は、日本サッカー協会のシンボルマークに採用された八咫烏(やたがらす)のエンブレムをデザインされた大分県臼杵市出身の彫刻家、故日名子実三さん(1893-1945)
年長者に聞いた話ですが、塔の中央に書かれている「八紘一宇」の文字は太平洋戦争後、GHQにより「大東亜戦争」「八紘一宇」などの言葉が国家神道を連想させるとして、1946年に「八紘一宇」の文字と武神の象徴である荒御魂(あらみたま)が取り除かれ名称が「平和の塔」と改められたとのことです。
「八紘一宇」神武天皇による建国の理念・理想を表現した言葉。八紘(四方と四隅、転じて天下を表す)を、一宇(一つの家)となす。日本書紀に記された和を尊ぶ日本らしい言葉だと感じます。
1957年に都市公園として指定されたことにより、平和の塔の復元が決定され、1962年に荒御魂像が、1965年には八紘一宇の文字がそれぞれ復元されたという。
1964年の東京オリンピックでは平和の塔が聖火リレーの第2スタート地点となった。
– はにわ園 –
1962年にはにわ園が完成。地元住民向けのアトリエ兼「はにわ館」と400体の埴輪レプリカが園内に点在。
埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台・特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺型埴輪がまず3世紀後半に登場し、次いで4世紀に家形・器財形・動物形(鶏)が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかになっている。
埴輪の構造は基本的に中空で、粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えて作ってある。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色塗料が塗布されている。
県立平和台公園公式ホームページ
参考資料
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