西都に生まれて120年余り、うなぎの入船あり

今年のお盆も終わりに近づき皆様は猛暑の中、如何お過ごしでしょうか?
まだ八月半ばなのに35℃超えの猛暑やらノロノロ大型台風やら…やはり温暖化の影響でしょうか?
私は仕事柄遠出することも出来ずほぼ自宅待機状態でございまして…流石に家族で少しでもお出かけしたく、精をつけるために宮崎のうなぎ処老舗「入船」さんへいざ参らん!
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– 二時間待ち –
高速を使い午前11:30にはお店に到着したものの、みなさん同じ事を考えていらっしゃる…。
順番待ち74番目の二時間待ちとは⁈しかたなく車内で待機ですね。
– 明治二十七年創業 –

やっと順番…結局3時間待ちでした…恐るべし。
うなぎもお高くなりましたね〜。
さてさて、お味をしっかりと堪能させて頂きます。


長時間待ちましたが「うなぎ丼(大)¥2,970-」にしました。ウチの奥さん(県外出身)お好みの呉汁(ごじる)が楽しみです。
– うなぎ丼(大) –

きました!きました!お腹空きまくりでございます。

ラッキーです♪尻尾側の三切。ふわっとしつつも皮はカリッと。身厚しっかりです。

大好物のうな肝です。本来セットは1人1本でございます。呑みたくなってきました。
– 呉汁(ごじる) –

※すり下ろした大豆のお味噌汁である『呉汁(ごじる)』も『うなぎの入船』の自慢の一品だそうです。秘伝の料理法で作られた呉汁をうなぎ料理と一緒に食べると、脂っぽさが取り除かれ後味を良くしてくれます。
待った甲斐がありました。ペロリと完食!やはり遠出しても来る価値あるお店でございます。
うなぎ入船HP
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前後しますが待ち時間の間に入船さん正面に神社がありましたのでお参り致しました。

南方神社(みなみかたじんじゃ) 西都市
一ツ瀬川下流右岸島内に鎮座。地内杉安から上流の一ツ瀬川を杉安峡といい、川の規模や山の高さ、深さが京都の嵐山に似ることから、「日向の嵐山」とよばれ、景勝地として知られるようです。
当社の創立年代は定かではないらしいのですが、旧称若宮大明神といい、棟札最古のものに弘安九年(1286)九月のものがあり、その由来の古いことが推察されるようです。

特に旧記の存するもはなく、わずかに口碑の残っているものによれば、伊東氏は本社を厚く尊信して、三宅十八社穂北十八社の第一社とし、供田を寄進しています。弘安四年(1281)蒙古襲来の際、上下ひとしく国運憂慮して皇国の勝運を神に祈願していたとの事。時に当社は神験の顕著なることより、村人神威を感じ入り、弘安九年(1286)丙戌九月社殿を再建し、その神徳を顕揚させたと伝えています。所蔵の棟札によればその後も度々造営再興が行われ、文禄二年(1593)十二月には高橋九郎殿元種により、享保六年(1721)三月には領主牧野氏より再興され、歴代領主領民の厚く尊崇した社であったようです。明治四年南方神社と改称し、同四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
当社は明治初年まで上穂北大字南方の良須山に鎮座し、南方穂北二村の産土神として村民の尊崇厚く、祭祀は近郷に例を見ないほど賑やかであったようです。しかし一ツ瀬川を挟んでいるため村人参拝にも不便であり、また出水等で祭にも差しつかえがあるため、明治七年氏子と合意の上現在地に鎮座したとの事。

神殿には古来より奉安する神面がある。これは神殿造営にあたり、白髪童顔の老翁何処からか来て神面を刻む事数日余。神面は出来あがり、これを神殿に献じて再びその姿を顕さなかった。人々は伝えて彼を手名槌命足名槌命と言い、また「キンナラ様」とも称する。旧六月十五日祭事を行い、官人この面を戴き舞を奉仕する。この時振舞が烈しければその年暴風雨があると言い、また緩和であれば風雨順調にして五穀豊穣であると言い伝えられています。
– 穂北のクス –


参考資料
https://www.m-shinsei.jp/m_shrine/南方神社(みなみかたじんじゃ)西都市/
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