古くには「神武天皇宮」「神武天皇御廟」などと称されていましたが、明治6年(1873年)に「宮崎神社」と改称し、更に明治11年「宮崎宮」と改称、大正2年(1913年)に神宮号が許可されて「宮崎神宮」となり、地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれています。
※本記事にはアフィリエイト広告が含まれます。
– 宮崎神宮 –
御祭神:神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)、のちの神武天皇「初代天皇」)を主祭神とし、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)と母神玉依姫命(たまよりひめ)の2柱を配祀されてます。
現在の社殿は、日向の名材狭野杉を用いた白木の銅板葺き神明流造りで、神武天皇御降誕大祭会により建て替えられたようです。
神事:「宮崎神宮大祭」(御神幸祭) は御東遷の御聖業を偲び奉って斎行されます。御鳳輦(ごほうれん)を中心にした荘厳な祭りで、古代衣装に身を包んだ隊列が延々と続きます。九州三大祭の一つといわれ、秋の宮崎を彩る県下最大の大祭です。当宮から瀬頭と大淀の御旅所(隔年で交替)まで、神輿を中心にシャンシャン馬や稚児行列が練り歩きます。(地元では「神武さま」で親しまれている)
神事:「神武天皇祭」神事流鏑馬を行うが、この流鏑馬は1940年の紀元2600年奉祝行事の一環として古儀に則り復興されたもの。勇壮華麗な春のこの神事は、さながら一幅の絵を見るように、なつかしい国振りの歴史を再現してくれます。4月3日は神武天皇崩御の日であるとのこと。
上記参照資料
宮崎神宮社務所発行(略記|宮崎神宮)
神武会事務所発行(皇祖発祥の地「宮崎」)
– 古代船 おきよ丸 –
「二の鳥居」を過ぎた左手に「古代船 おきよ丸」が展示されていました。
「神武東征説」高原の狭野で成長したイハレヒコは、サノノミコトとも呼ばれていた。やがて宮崎の宮(皇宮屋〜こぐや)で日向を治められたが、全国統一の構想を練り、船軍を率いて東方に向かうことになった。東国征伐の出発にあたっては、八月一日の夜明け前、最良の日と判断され急遽、出航命令を下され家々の戸を叩き「起きよ!起きよ!」とふれまわり出港に間に合わせた美々津の港から出港されたので、この地は「日本海軍発祥之地」と伝承されています。(宮崎神宮社務所発行「略記|宮崎神宮」資料に神武天皇と三人の兄たち・日向から大和への航路、画あり)
– 宮崎神宮徴古館 –
「宮崎神宮徴古館」とは。宮崎神宮の宝物や書籍を陳列・保存するため、明治42年に建築された木造2階建ての建物です。外壁全体を覆う「なまこ壁」が、独特の光景を生んでおり、慶應義塾大学三田キャンパスにある「三田演説館(国の重要文化財)」と非常に似た造りだとのこと。
参照資料
宮崎神宮
宮崎市観光サイト
– 御朱印 –
コメント